震災から6年、木碑プロジェクトの今 (前編)~「木碑」というアイデアとの出会い
2011年、東日本大震災で大きな被害にあった岩手県大槌町。認定NPO法人カタリバは、子どもたちの放課後の居場所「コラボ・スクール大槌臨学舎」を開きました。その生徒だった吉田優作さんは、現在、千葉県で防災について学ぶ大学3年生です。
優作さんは高校生のときに、後世の人に震災の記憶を伝えるため「木碑プロジェクト」を発案。カタリバは地域の方々と一緒に、彼の思いを全力で応援してきました。震災から6年、彼の歩みと今の思いについてうかがいます。
■今度は自分が地域のために何かしたい
「震災の記憶を後世に伝えるために、何か行動を起こしたい」。優作さんがそう思って模索を始めたのは、2012年の年末、高校1年生のときです。
東日本大震災発災時、優作さんは中学2年生。津波で自宅を失いました。その後は仮設住宅で暮らしながらコラボ・スクール大槌臨学舎に通って勉強し、高校に合格しました。
高校生になった優作さんが感じたのは、震災後、自分たちが多くの人に支えられていたということ。だからこそ、今度は自分たちが地域のために何かしたいと思い、「仮設住宅に住むおじいちゃんおばあちゃんを元気にする」というテーマで、高齢者施設でボランティアをしたり、地域でお茶会を開いたりといった取り組みを開始しました。
そんな優作さんが、新たなテーマに出会うきっかけとなる出来事がありました。2012年12月に宮城県で行われた「中学生・高校生による全国防災ミーティング」というイベントです。
同世代で防災について学び、語り合うという経験が、優作さんに新しいテーマを与えました。「今回のような震災の被害を二度と繰り返さないために、震災の記憶を残し、後世に伝えるにはどうすればいいのか?」
■木碑を建て替えることで、人々が関わり続ける
優作さんはコラボ・スクールのスタッフなど周囲のいろんな大人に相談することにしました。その中で民俗研究家の結城登美雄さんから「木碑を作って、定期的に建て替えるのはどうか」というアイデアをいただきました。
木碑というアイデアについて、優作さんはそのときすぐにはピンと来なかったそうです。ところが自宅にいたある日、ふと「そういえば、子どもの頃に遊んでいた場所の近くに石碑があったよな」と思い出しました。すぐに自転車で確かめに行くと、石碑は確かにありました。
この石碑は1933年の昭和三陸津波のあとに建てられたものでした。「ここより先に家を建てるな」「津波が来たら高台に逃げろ」など、まさに自分が今、伝えたいような言葉が書かれていたのを見た優作さんは、衝撃を受けたといいます。
「なぜこの碑文が震災前に多くの人に知られてなかったんだろう。この教訓がちゃんと伝わっていたら、今回の震災で多くの人が亡くなることもなかったんじゃないか。もっと早く知っておけばよかったのに…という、後悔という言葉じゃ足りないくらいの思いが押し寄せてきました」
一方で優作さんは、「この石碑の教訓が活かされなかった理由」についても考えました。石碑は一度建ててしまったらそこで完成してしまい、年月がたつにつれその地域に住む人たちにとっては風景の一部になってしまう。優作さん自身、小さい頃よく目にしていたのに、そのときまで石碑の存在を忘れていたくらいですから。
そこまで考えて初めて、優作さんの中で「あえて手間をかけて、腐ってしまう木で碑を作り、取り替えていくこと」の意味がはっきりしてきました。「一度建てておしまい」ではなく、そこに住む「人」が継続的に関わり続けていくことが大事なんだ、と。そこから優作さんの木碑プロジェクトが始まりました。
■たくさんの大人たちの協力を得て、プロジェクト始動
優作さんは、「おじいちゃんおばあちゃんを元気にする」という最初のプロジェクトで関わりのあった安渡の古学校地区に木碑を建てようと思い、地区の代表の小国さんに相談しました。小国さんからは一度断られたものの、企画書を作成して再度お願いに上がったところ「分かった。じゃあやってみるか」と協力いただけることになりました。
また、建設業を営む岩間さんとの出会いから土台作りも協力していただけることになり、さらに岩間さんから他の企業の方々も紹介していただきました。授業のない週末には、紹介された企業に1軒1軒足を運んで「よろしくお願いします」と頭を下げて回ったと言います。その結果、木材の加工や文字を掘って下さる方など、協力者が次々と増えていきました。
■「大きな地震が来たら戻らず高台へ」
優作さんは木碑を建てる準備を進めながら、2月下旬には地域の人々に集まってもらい、木碑に刻む言葉を考えるためのワークショップも行いました。みんなで決めた言葉がこちらです。
「大きな地震が来たら戻らず高台へ」
「『戻らず』というのが一番のポイントかなと思います。今回の震災では地震が起きてから津波が来るまで30分以上時間があって、一度避難したのに『津波が来ない今のうちに必要なものを取りに行こう』と自宅に戻ってしまって流されてしまった人もいたので。
取材などで『この言葉にどんな思いを込めたんですか?』と聞かれることもあるんですが、この言葉は僕の発案ではなく、地域の皆さんから出てきたものです。木碑が建っているこの場所まで津波が来たということ、そのことを地域の皆さんたち自身が表現することが大事だと思いました」
こうして2013年3月11日、最初の木碑が建てられました。そしてここから、「この活動を今後どうつなげていくか」という、次の課題が始まったのです。