「学びなおしを保証する」教科書の進化に思うこと[代表のつぶやき]
さまざまな事情で基礎学力が身に付かないまま高校に進学した生徒のために編集された教科書が、文部科学省の検定に合格しました。そのことについて、こうした教科書の登場を歓迎する立場として、新聞記事にコメントさせていただきました。
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/507794
想定通り、さっそく「高校生でこんな内容・・」と、驚いたという声も届きましたが、ゆとり教育を世間が極度に勘違いしてしまった悪夢のように、ここでも勘違いの解釈がひろがってはいけないと思いますので、補足します。
大前提として、日本の教科書は、学習指導要領が示す基準を教科書会社が解釈し、複数のバリエーションで(ベーシックなものと、中堅と、難関校向け、等)教科ごとに教科書を出します。同じ単元でも、それを国立大学の二次試験レベルで取り扱うのかか、ベーシックな理解を深める内容にするかは、教科書ごとに違います。これまでも高校は、教科担当の先生が、在籍している生徒たちの実情に合わせて、教科書を採択してきました。
教科学習の教え方は、1人1台端末でどう個別最適化できるかなど伸びしろだらけなので、受け持った子どもたちの学年相応の習得に伴走する努力は、今後も先生方に求められます。しかし、学び方の転換点である2021年段階では、まだ小学生段階でつまずいたまま高校生になっているという生徒も少なくない現状です。
何歳になっても、自分のつまづきに気づいて、ずっと前に立ち戻ってから、だんだん次にすすむことは恥ずかしいことではないことは、言うまでもありません。
学力は、学校だけではなく、家庭が支出できる経済負担を前提にした塾などの学校外教育機会によって、格差が広がっているとも言えます。自分の現在地を知ることはそれなりに難易度が高く、親や第三者など伴走者の関わりによって「わからない」ことに気づけますが、そういった教育資源がある家庭で生まれるかどうか、子ども自身には環境を選択できません。
「何がわからないのかもわからない」まま、学年だけすすんでしまった子たちが、高校生になって、もういちど丁寧に学びなおせることを、教科書でも保証できること。
あらためて、格差社会を前提にした教育資源として、必要な進化だと感じます。