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能登半島地震発生直後に現地へ。被災地の子ども支援に奔走した日々/Spotlight

vol.329Interview

date

category #インタビュー #スタッフ

writer 田中 嘉人

Profile

石井丈士 Takeshi Ishii キッカケプログラムのメンバー兼sonaeru事業責任者

1986年生まれ。桜美林大学卒業後、親と生活することのできない子どもたちを支援するNGOに就職。3年間のフィリピン駐在を含めて10年間の勤務後に独立。フィリピンで高校生たちの支援を行うNGOを立ち上げる。2年間の事業運営後に帰国し、国内で将来を担う次の世代に関わりたい続けたいという思いでNPOカタリバに入職。困窮世帯にパソコン・wifiを貸与して教育支援を行うキッカケプログラムを担当。2024年1月1日より、キッカケプログラムと兼任でカタリバの災害時子ども支援「sonaeru」の責任者として活動している。

度重なる自然災害やコロナ禍など、昨今は社会全体、さらには子どもたちの置かれる環境に大きな影響を与える出来事も少なくない。

すべての10代が意欲と創造性を育める未来の当たり前を目指し、全国各地で活動を行っているカタリバ。
その現場では、状況の変化に合わせて取り組みの内容を柔軟に進化・変化させつつ、目の前の子どもたちに向き合っている。

シリーズ「Spotlight」では、現場最前線で活動するカタリバスタッフの声を通して、各現場のいま、そして描きたい未来に迫る。

2024年1月1日16時10分。石川県の能登半島を大きな地震が襲った。

この日、自宅にて緊急地震速報で事態を知り、現地へ向かったのがカタリバの災害時子ども支援「sonaeru」の責任者・石井丈士(いしい・たけし)だ。

前任の退職に伴い、1月1日に責任者として着任したばかりの石井は、いかにして被災地支援に取り組んだのか。「日々全力で、ノンストップで動いてきました」と振り返る、彼の怒涛の日々に迫る。

2024年1月1日16時10分、緊急地震速報
最優先で行ったこととは

——まず、地震発生直後の動き方について教えてください。

地震発生時は、自宅でベランダの掃除をしていました。アラートが鳴って、緊急地震速報が流れて間もなく大津波警報が発令されて……「逃げてください」という言葉が繰り返し流れていました。

徐々に火事や津波といった被害状況がわかってきた段階で、「sonaeru」のチームメンバーとコミュニケーションをとり始めました。

——どういったコミュニケーションをとったのでしょうか。

まずはみんなで担当を分けて情報を収集して、翌日午前にミーティングすることに。「sonaeru」では災害の規模に応じて、現地調査へ行くかどうかの判断をしているのですが、ミーティング実施時点で基準は満たしていたので、出発に向けて準備を進めました。

北陸新幹線は3日から再開が決定したため、できる限りの情報だけ集めて、あとは現地で調査することになりました。

——現地での動きについても教えてください。

新幹線で金沢市まで行き、現地の方とコミュニケーションをとることから始めました。

金沢市にあるユースセンターの代表の方や、以前災害支援に関する講演会で関わった七尾市の方など、とにかく石川県内でつながりのある方へ連絡をとって会いに行きました。

「sonaeru」としての最優先事項は、被災地における子どもの居場所づくり。居場所を開設できる場所を探しているときに、地域とのつながりが深い方から七尾市にある避難所を紹介してもらえて。避難所を運営している方からも、「ぜひここで子どもの居場所を展開してください」と言っていただけたので、1月4日に七尾市で居場所を開設することができました。

——すごいスピード感ですね。現地の方からの反応についても詳しく教えてください。

肉体的・精神的な疲れが垣間見えることもありましたが、そんな中でも僕らの取り組みを前向きに受け入れてもらえた感覚はありました。

災害支援はスピード勝負。現地のキーマンと出会って信頼を得て、協力してもらうことが大事なのですが、カタリバの名前を知っていただいていたり、「これまで私たちはこういうことをやってきました」と災害支援の実績を語れる部分があったりしたことがポイントだったかもしれません。あとは、何といっても能登の方たちの外の人を受け入れる寛容な人柄や土地柄ですね。そこに救われました。

「動けば動いただけ力になれる」を胸に

——一方で、石井さんは1月に「sonaeru」の責任者になったばかり。一つひとつ判断していくことに難しさを感じるようなことはありませんでしたか。

1月10日ぐらいまでは前任もまだいてくれましたし、代表の今村も現地に来ていて、3人で相談しながら判断できていたので、頭を抱えるほど悩むようなことはありませんでした。

何より被災地では動けば動いただけ力になれるので「とにかくやっていこう」と今村とも話をしていて。とにかく一人でも多くの方と会ってお話を聞き、必要な支援は何か自分たちの頭で考えるように努めました。迷っている暇はないから「やれることをやりましょう」と。

——1月4日以降の動きについても教えてください。

七尾の居場所づくりは「sonaeru」の他メンバーに任せて、僕は今村と一緒に、より被害が大きかった珠洲市へ行くことにしました。

金沢市から珠洲市までは、普段なら3時間ほどで行けるのですが、6時間経って予定の半分ぐらいしか進めませんでした。

翌日の朝、やっと珠洲市に到着し、今村の友人ですでに物資支援に入っていた方から紹介してもらっていた避難所の飯田高校に入りました。

地震によって飯田高校の目の前が地割れしている様子

避難所責任者となっていた校長先生とお話しし、大人だけでなく避難所にいる地元の高校生たちにも声をかけて「子どもの居場所」を運営していく仲間になってもらい、翌日1月6日に子どもの居場所をオープンしました。

地域の高校生たちと話す石井

居場所を開設してから2〜3日間ほどは僕も現場でサポートするのですが、応援が来たり、稼働が安定してきたら次への場所へ行って……という動き方で珠洲市でさらに1ヵ所、輪島市で1ヶ所をオープン。同時に金沢市、能登町、志賀町でも地域の人や地元NPOの力を借りながら子どもの居場所の立ち上げと運営をしていました。

「今できることをやろう」という気持ちで動いてきて、振り返ると様々な人たちと連携協力しながらできる支援をとことん形にしてきたなと思っています。

地域の人たちが復興の主役。
支援を加速させるために私たちができることは

——かなり慌ただしい日々を過ごされていたように思います。

カタリバが今までやってきたことを信じて、本当にがむしゃらに毎日を過ごしていました。

子どもの居場所ができる前は避難所の隅で一日中スマホをいじって静かに過ごすしかなかった子どもが、オープン後は居場所に来て楽しそうに過ごし、明らかに表情も変わっていて。「こういう場所って必要なんだ」と強く実感できました。

居場所に来た子どもと一緒に遊ぶ石井

保護者のなかにも、「夫は行政職員だからずっと出ずっぱりで、子どもは自分ひとりで守らなきゃいけないと思っていて、誰にも相談できずにいっぱいいっぱいになっていた」という方がいて。「でも、居場所ができて子どもを預けられたので、やっとこれからのことを考えられる」と涙ながらに話してくれました。その言葉を聞いて、子どもだけではなく親にとっての居場所の必要性も同時に感じました。

——難しさを感じたことはありますか?

発災の直後は肉体的な大変さこそありましたが、やればやった分だけ被災された方々の力になっていた実感があったので、難しいと感じることは少なかったですね。強いて挙げるとするならここ最近です。

復旧フェーズから、復興フェーズに入ってきているなかで、カタリバとしての関わり方をどう形にしていくか方向性を定めることに難しさを感じています。3月末ぐらいから徐々に子どもの居場所をクローズし、現地の自治体が学童などを再開し始めているのですが、二次避難などで人手が減っていたり、建物が崩れてしまっていたりして完全に元の形に戻すことは難しい状況なんです。

そんな中で、本当に子どもの居場所をクローズしてしまっていいのか……?決断が難しかったです。

ものすごく悩んだのですが、ひとつ決めていたのは、地域の人たちが復興の主役であるということ。カタリバは違う地域で災害が起きたらそこへ足を運んで支援していくことになるので、ずっと能登支援に全力を注ぎ続けるのはどうしても難しいです。

そのため、もっと中からも外からも能登支援に関わる人を増やすことで、子どもを取り巻く環境を充実させていきたいですね。

どんな環境にいても自己実現ができるように

——今回の取り組みを通じて学んだことはありますか?

sonaeruチームメンバーとのコミュニケーションですね。今回は広域に渡る活動だったこともあり、メンバーひとりひとりが別々の地域で活動していました。カタリバでの社歴が浅いメンバーも含めてそれぞれの場所から全員が必死に活動を形にしてくれていました。

生活環境が大きく変わり、お風呂にも入れない日々が続くなかで、その地域では唯一のカタリバのスタッフとして意志決定をいくつも求められる。そうした状況でチームメンバーがポジティブに取り組めるようにするためにはどうすれば良いか……これは今でも常に悩んでいますね。

——被災地支援で学んだことはいかがでしょうか?

僕らのような外の人間が関わることの意味です。特に災害発生直後の緊急フェーズは、被災地域のみなさんは肉体的にも精神的にも疲弊していて、先がわからない状況に不安でいっぱいです。

そんなときに、外部から来た人間だからこそ支えられるときもある。地元の人たちがどうしても配慮してしまうこと、たとえば地域の人間関係などは気にせずどんな人にでも「今どんな支援が必要ですか?」「なにかできることはありますか?」と声をかけてきました。

——これから能登とはどのように関わっていきたいと考えていますか?

能登で「復興のために自分もなにかしたい」と思っている地元の方たちと出会い、その人たちが描く挑戦を応援していきたいです。

同時に、先ほどもお話しましたが、外から「能登を支援したい」と思っている方を地域につなぎながら、能登に関わってくれる人を増やしたいですね。

熱意をもって能登に関わっていきたいと思う人が、継続的に関われるようにサポートしていくことも大事だと思っています。

——今回の取り組みを通じて、ご自身の人生観や仕事観などに変化はありましたか?

どんな環境に生まれ育っても、『やりたい』と思えるものを見つけて、実現できるような社会にしていきたい」という気持ちは変わらずあります。

それは被災地に限らず、一緒に働く「sonaeru」のメンバーに対しても同じ気持ちで。僕よりも若いメンバーばかりですが、みんな素直で、タフで、本当にメンバーに恵まれているなあと日々感じています。

だから、彼らがカタリバに限らずどんな環境へ行ってもチャレンジしていけるように成長できる環境を整えて、背中を押していきたい。そう思っても形にするのはなかなか難しいですが、僕自身が本当にいろいろな経験を積ませてもらってきたので、今度は次の世代につないでいきたいですね。

珠洲市の高校生と地元のNPOと一緒につくった「みんなのこども部屋」


 

「僕の周りには優秀な人や力のある人がたくさんいるので、彼らが活躍していけるようになれば嬉しい」

自分ではなく周りに目を向けられる石井だからこそ、地域から信頼される「sonaeru」の責任者として数ヶ月を過ごすことができたのだろう。

「僕はそんなに自己評価が高くないんで(笑)」。最後に、石井は照れくさそうにそう締めくくった。

 

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Writer

田中 嘉人 ライター

ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。

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