“出戻り”という決断。民間企業に転職して気づいたカタリバの本当の強さ/Spotlight
金森 俊一 Shunichi Kanamori 経営管理本部
1987年、千葉県生まれ松戸育ち。2012年にカタリバへ入社し、岩手県にあるコラボ・スクール大槌臨学舎へ。その後文京区青少年プラザb-labの立ち上げ準備チームに合流し、2代目館長に就任する。2018年には大槌臨学舎の校舎長にも就任。2019年、カタリバを退職し富士通エフサスへ入社しGIGAスクール関連の入札営業を担当する。2021年に再度カタリバへ入社し、現在は経営管理本部にて、社内ワークフローシステムの運用や、理事会の事務局などを担当している。
度重なる自然災害やコロナ禍など、昨今は社会全体、さらには子どもたちの置かれる環境に大きな影響を与える出来事も少なくない。
すべての10代が意欲と創造性を育める未来の当たり前を目指し、全国各地で活動を行っているカタリバ。
その現場では、状況の変化に合わせて取り組みの内容を柔軟に進化・変化させつつ、目の前の子どもたちに向き合っている。
シリーズ「Spotlight」では、現場最前線で活動するカタリバスタッフの声を通して、各現場のいま、そして描きたい未来に迫る。
一度カタリバを離れて民間企業でキャリアを積み、再びカタリバへーー。
そんな異色の経歴を歩んでいるのが、経営管理本部の金森俊一(かなもり・しゅんいち)だ。いわゆる”出戻り”を受け入れる企業は増えてきているものの、決して多くはない。カタリバにおいても前例はなかった。
それにも関わらず、なぜ金森はカタリバでの再挑戦を決めたのか。彼の決断に迫る。
「やりきった」ーーカタリバ退職の理由
——1回目のカタリバ入職について教えてください。
きっかけは東日本大震災です。当時、新卒で入社したメーカーを退職して転職活動を始めたタイミングだったのですが、計画停電などもあってすべてがストップしてしまって。
やることがなくなったこと、浦安が自宅から自転車圏内だったこともあって、ディズニーランドの泥かきなどをやっていました。本当は一週間通う予定だったのですが、1日で腕と背中が痛くなり、2日目から行けなくなってしまって……ボランティアセンターに「明日は行けません」と伝えたときは、本当に情けなかったですね。
それでも「何かしたい」とボランティアを探していたら、カタリバのホームページにアスファルトのうえで勉強している男の子の写真が載っていて。一枚の写真でしたが、東北沿岸部には同じように苦しんでいる子どもたちがいることを想像させるには充分すぎました。
アスファルトのうえで勉強する男の子
「頑張りたいのに頑張る場所がない」ってフェアじゃないですよね。憤りにも似た感情が芽生えて、カタリバに「何かを教えた経験がないので教えること以外だったらなんでもやります。教える人たちのサポートもするので、カタリバに入りたいです」と直談判。「じゃあ、明日から岩手県へ行ってください」と言われて、大槌町にあるコラボスクールへ行くことになりました。
——その後、コラボ・スクール大槌臨学舎から、文京区青少年プラザ「b-lab」の立ち上げを経て、b-labの2代目館長やコラボ・スクール大槌臨学舎の校舎長に。カタリバ内でのキャリアステップとしては順風満帆そのものだったように思うのですが、2019年3月に退職しています。何があったのでしょうか?
退職の理由は、転職することになる富士通の部長さんとのお話を通して、やるべきことが見つかったからです。当時日本中の子どもたちにタブレット端末を配布するというGIGAスクール構想の卵のような話があって、自分のなかで「現場感のある人が旗振り役をやるべき」という仮説がありました。部長さんとそんな話をしていたら、「できることあるよ」と声をかけてくれて……富士通エフサス(現富士通Japan)へ入社しました。
「カタリバに戻ってはいけない」と思っていた
——富士通グループではどういった業務を担当していたのでしょうか?
教育委員会のネットワーク保守、そしてタブレット端末導入に向けた実証実験を担当していました。いわゆる営業職として、現場の先生方のところへシステムエンジニアと一緒に説明に行って、課題をヒアリングして……教育のDX化を進めていました。
ただ、コロナをきっかけに現場へ行けなくなって。粘り強く話を聞く姿勢が現場で受け入れられている感覚があったので、リモート環境はかなりダメージが大きかったです。
そんなときにSNSを見ていると、カタリバの活動の様子が目に入って。一斉休校のときもすぐに「カタリバオンライン」を立ち上げている様子を目の当たりにして、「このスピード感だから成し遂げられるんだよな」なんて考えていました。
先の見えない状況で機動的に活動しているカタリバのメンバーの様子は、ずっと気になっていましたね。
——再びカタリバの門戸を叩くことになったきっかけを教えてください。
ひとつは、異動が起因しています。入社から2年は教育関係に携わっていたのですが、その後医療関係の担当になって。全く知識がないなかで自分なりに頑張ってみたものの、働き方に対してミスマッチを感じるようになってきました。
趣味のサウナで悶々としていたら、「もっと自分の力を発揮できるところで時間とエネルギーを使いたい」という沸々とした気持ちがバンと弾けて「カタリバに戻りたい」「もう一度チャレンジしたい」という気持ちになりました。
もうひとつは、カタリバでスタートした「ルールメイキング」のプロジェクトです。当時SNSなどでは「ブラック校則」がバズワードになっていましたが、カタリバが取り組んでいるのは「校則を変えよう」ではなく「対話を通して自分たちで変えていこう」というメッセージを打ち出していて……すごく「カタリバらしいな」と惹きつけられました。
ただ、カタリバへ戻りたいという気持ちはありつつも当時は「自分はカタリバに戻ってはいけない」という気持ちもあったんです。
——それはなぜでしょうか?
「やり切りました」と言って退職していますからね(笑)。考えすぎかもしれないですが、7年も働いた自分が辞めたことで、少なからず後輩にインパクトを与えてしまった部分もあったはずなので……。
でも、自分の気持ちに嘘はつきたくないという想いから、履歴書、職務経歴書をしっかり準備して他の方と同じプロセスで採用フローに臨みました。さらに各所に交渉を重ねて、何とか戻れることになりました。
民間企業での経験をカタリバにインストールする
——いわゆる“出戻り”になるわけですが、再入職において注意したことはありますか?
カタリバという組織を強くするためにできることは何でもやるという気持ちで、経営管理への配属を希望しました。「現場のサポートに回りたい」と思っていたんです。
その希望が通り、現在は社内ワークフローシステムの運用やカタリバの理事会の事務局担当などをしています。
——どのあたりをご自身のミッションと捉えているのでしょうか?
カタリバに“仕組み”をインストールしていくことです。目の前の課題を優先するあまり後回しにされてきてしまっていた社内のワークフローを整えていきたいです。
ありがたいことに、寄付していただく企業様の規模もどんどんスケールアップしてきているので、そのために社内ガバナンスを整理していきたいと考えています。
——“仕組み化”はスムーズに進んでいますか?
もしかしたら既存のメンバーはやり方を変えられることに不満を感じるかもしれないので、「これは仕事のやり方を変える挑戦です」と伝えています。
実際に少しずつ結果も出始めていて。ワークフローを整えたことで「これ、楽ですね」「やりやすくなりました」という声もチラホラ聞こえるようになりました。一方で「まだよくわからないんですよね」というメンバーもいるので、継続してコミュニケーションを取っていきたいと思います。
——そういう意味では富士通のような大手民間企業での経験は大きかったですね。
そうですね。決裁フローなどは徹底して整理されていましたからね。“仕組み化”によって仕事のメリハリをつけやすくなった経験がありますし、カタリバの現場の気持ちも理解しているつもりなので、自分としては適任だったように思います。
一度離れたからこそ気づけたカタリバの “強さ”
——一度カタリバを離れたからこそ気づいた魅力はありますか?
いい意味で縦割りではないところではないでしょうか。富士通グループのような大きな企業だと役割分担が明確で、たとえば営業エリアなども決められている。カタリバももちろん役割分担はされているものの、部門の垣根を越えて「これどうしましょう?」「一緒に考えましょう」と言い合えるカルチャーは貴重だと感じます。
今回の能登半島地震における支援についても、基本的には各チームに所属する災害対応のメンバーが現地に足を運んでいます。チーム単位で考えるとリソースが減ってしまうわけですが、みんな文句を言わず災害対応メンバーを「こっちは大丈夫だから」と送り出せるのは、カタリバならではだと思います。
——これから改善していきたい部分はありますか?
自分も含めて、スタッフの視座をあげていくことです。みなさん自身が所属している事業への理解は非常に深いのはとても良いところだと思いつつ、もっとカタリバ全体に目を向けてそれぞれが「どうすれば組織がもっとよくなるか」という視点で考えられると、より組織力が上がるのではないかと思っています。自分の事業とは一見つながりがなさそうな事業でも、同じような悩みが発生しているかもしれませんからね。
あわせて、「私はこうしていきたい」という意思を表示できるような場づくりをしていきたいと考えています。「理事会ではこういう議論をしているよ」などオープンに話し合えるといいですよね。
——組織としても一体感が生まれると思います。
そうですね。たとえば広報部なども内部コミュニケーションを頑張ってくれているので、私自身も各部署と連携を取りながら、盛り上げていきたいと思います。
私にとってカタリバの好きなところのひとつは「変わり続けていること」です。守らなければいけないものがある中で変わり続けるってすごく大変だと思うんです。でも、カタリバは安定運用しつつも成長し続けている。変化に対する強度や意識の強さはカタリバの圧倒的な強みだし、“カタリバらしさ”につながる部分です。
だから、私も変化に耐えられる裏方でありたいし、「どんどんやっていこう」とエンパワーメントしていけるような存在でありたいと思います。
「カタリバのみんなには、これまで積み上げてきたもの、守ってきたものがたくさんあり、きちんと運営できていることを誇りに思ってほしい」
最後に、金森はこう結んだ。民間企業を経験しているからこそ、目の前の課題に向き合いつつ事業の幅を拡大していくことの難しさを実感している金森。今後も変化に耐え、新しい価値を生み出していく組織であるために。金森の再挑戦は始まったばかりだ。
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田中 嘉人 ライター
ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。
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