支援現場から「こども家庭庁」へ。10年間子どもたちと向き合い続けた彼の、新たな挑戦/Spotlight
加賀 大資 Daisuke Kaga RESILIENCEドメイン推進リーダー
東京都の私立中高一貫校にて英語の教員として働いた後、オーストラリアへ英語教授法TESOLを学びに留学。帰国後、東日本大震災により甚大な被害を受けた岩手県大槌町でコラボ・スクール大槌臨学舎を立ち上げるため、カタリバへ転職。立ち上げから2016年までの4年間運営したのち、東京都足立区にて貧困、孤独、発達の課題など様々な困難を抱える子どもたち向けの居場所兼学習支援拠点、アダチベースを立ち上げ、運営する。2022年4月からはRESILIENCE(レジリエンス)ドメイン推進リーダーとして活動。2022年9月末でカタリバを退職し、2022年10月より「内閣官房こども家庭庁設立準備室」に転職予定。
度重なる自然災害やコロナ禍など、昨今は社会全体、さらには子どもたちの置かれる環境に大きな影響を与える出来事も少なくない。
すべての10代が意欲と創造性を育める未来の当たり前を目指し、全国各地で活動を行っているカタリバ。
その現場では、状況の変化に合わせて取り組みの内容を柔軟に進化・変化させつつ、目の前の子どもたちに向き合っている。
シリーズ「Spotlight」では、現場最前線で活動するカタリバスタッフの声を通して、各現場のいま、そして描きたい未来に迫る。
2012年にボランティアとしてカタリバの扉を叩いた加賀大資(かが・だいすけ)。
ボランティアから正職員、プレイヤーからマネージャー、岩手から東京と、役割や環境を変えながら、10年にわたってカタリバで子どもたちと向き合い続けてきた。
そんな彼はこの10月、2023年4月に設置される「こども家庭庁」の設立準備室である「内閣官房こども家庭庁設立準備室」に転職することを決めた。カタリバ卒業を前に10年間を振り返りながら、子ども政策の中心的役割を期待される「こども家庭庁」への転職の背景や、これからの目標に迫る。
元教員のおせっかいお兄ちゃん
ーカタリバでの在籍期間はどのくらいになるのでしょうか?
2022年でちょうど10年ですね。カタリバではかなり古株です。
もともと都内の母校にて英語の教員として働いていました。その後、2011年に海外留学することにしたのですが、日本を発つ直前に東日本大震災が起きて……自然災害を前に自分の無力さを痛感したまま、オーストラリアへ渡りました。
留学中もずっともやもやした気持ちを抱いていたなか、帰国する2ヶ月ほど前に、高校の同級生がカタリバで働いていて「被災地で教育ボランティアを募集している」とSNSで発信しているのを見つけて、すぐに彼に連絡。帰国して、面接を受け、岩手県大槌町へ行くことになりました。
本当はボランティアは1ヶ月半で終わらせる予定だったんですけどね(笑)。現場のいちプレイヤーからマネジメントまで経験し、当初の予定よりだいぶ長くカタリバに在籍することになりました。
ー教員とNPOでは、子どもたちとの接し方は違いますか?
かなりチューニングしていますね。大槌臨学舎やアダチベースなど、カタリバが運営する子どもたちの居場所では、家でも学校でもない「第3の居場所」というコンセプトを大切にしています。前職ではかなり意図的に「理想の教員像」を演じながら接していましたが、そのまま持ち込んでしまうと第3の居場所に“学校感”が生まれてしまうので。少し緩和して、彼らの状況や今やりたいことなどをベースにしながらコミュニケーションするように意識しています。
もっとざっくばらんな言い方をすると、“いい塩梅のおせっかい”という感じですね。たとえば「勉強したくない」という子どもを学習に誘導させるために、強制力を働かせるのではなく、「やっておいた方がいいでしょ〜(笑)」「俺だったら今やっておくな〜(笑)」などと言いながら、近所の世話好きなおっちゃん、兄ちゃんぐらいの感覚で接しています。
ーなぜ10年も続けられたのでしょうか?
大きく分けて二つの理由があると思います。
一つ目は、現場にいることで、目の前の子どもたちの変化に気づいたり、「もっとこういうことをしたい」というアイデアを思い付いたりする機会が増えてきたからですね。「まだ足りない」「こうしなきゃ」を繰り返しているうちに10年という年月が経っていました。
もう一つは困難を背負っている子どもたちと接する中で、社会側に働きかけていく必要性を感じたからです。子どもたちが生きやすい世の中にしていくためにカタリバでできることは、まだまだある。「何か目指したい姿がある」というよりも、目の前の課題に向き合い続けた結果が、10年という在職期間につながっているのかもしれませんね。
環境が変われば、人は変われる
ー印象に残っているお子さんとのエピソードはありますか?
アダチベースに以前在籍していた、当時中学3年生の子どものエピソードを紹介させてください。その子はひとり親の家庭で、お母さんは看護師をされていました。そのため母親が夜勤のときはテーブルに置いてあるお金でコンビニ弁当を買って食べるという生活だったそうです。高校進学が迫るものの、学校に通えていない状況も見られ、母親に連れてこられる形でアダチベースに通うことになりました。
ただ、自宅が施設から自転車で30分程度かかる場所だったので「通い続けるのは難しいかな」と僕たちスタッフは感じていたんです。ところが、彼はちゃんと通ってくるんですよ。彼に刺さったのは、みんなで夕食を食べる時間でした。誰かがつくった温かい食事を誰かと一緒に食べるという経験が乏しかったことが、彼の心を弱らせていたんです。
みんなでの食事を通じて心が満たされたのか、ある日「高校に進学したいから勉強を教えてほしい」と話をしてきました。少しずつ受験勉強に取り組み、無事合格。高校進学後には、「アダチベースに通う子どものために自分もボランティアとして活動したい」と言い始めて。アダチベースの子ども食堂でボランティアをして、さらには臨床心理士になるために大学へ進学。現在は、大学に通いながらボランティア活動も続けています。
「誰かのために人生を送りたい」だなんて、初めてアダチベースに来たときからは想像できない姿です。改めて、ちょっとしたきっかけで環境さえ変われば、人は変われることを目の当たりにした出来事でした。
ーお話を伺っていると、プレイヤーとしての仕事にもやり甲斐を見出している印象を受けるのですが、マネージャーという役割に就くことに葛藤はなかったですか?
めちゃめちゃありました。もともと「プレイヤーとして頑張りたい」と思って始めた仕事だったので。
転機となったのは、大槌町のコラボ・スクールでの活動です。施設が大きくなるにつれ、子どもたちと直接関わるプレイヤーだけではなく、彼らを束ねるマネージャーが求められるようになりました。自然と僕もマネージャーとしての役割を任されるようになったのですが、本当はずっと「やりたくない」と思っていて。当時のもうひとりのマネージャーと何度も対話しました。
でも、「じゃあ、誰ならできるんだろう」と周りを探しても、僕ら以上に覚悟を持って子どもたちと向き合えている人間はいないんですよね。
結局「僕らがやらなければいけない」という結論になり、腹をくくりました。少しずつ「自分がマネージャーとして成長することが、コラボ・スクールの全体の底上げになる」という気持ちが芽生えてきて、前向きに取り組めるようになっていきました。
それにプレイヤーでいるよりもマネージャーの方が大きなインパクトは生み出せますよね。いくら自分がいち教育実践者としてレベルアップして、サービスのクオリティも上がったとしても、プレイヤーでは届けられる数に限界があるので。子どもたちと向き合う中で、社会全体にまで視野が広がったからこそ、マネージャーという役割を担うことの意味を理解できたような気がします。
教育は社会の根幹である
ー加賀さんがカタリバでの仕事に取り組む意義とは、何だったのでしょうか?
先ほどのアダチベースに通っていた子どもの話と重なるかもしれませんが、常に希望を持ちながら子どもたちと向き合える点ですね。
前職は私立の教員だったので、通っているのは環境的に不自由していない子どもが多かった。だから、ちょっとした関わりや機会によって、すぐに行動に移してくれていました。一方、困難を抱える子どもたちの多くが、土台にある心の安心安全の基盤がぐらついているが故に、行動の動機づけがなかなかうまくいかない。正直、最初はあまり手応えのない状況に戸惑いました。
でも、土壌を耕して、アプローチする角度を変えることで、急に反応を返してくれることがある。どんな状況にいても、出会う人や育つ環境を変えることで、いくらでも能力を開花していけるわけです。だから僕も希望を持ちながら、チャレンジし続けられています。
やっていること自体はすごく地味ですよ。専門的な言い方をすると「教育」よりも前段階の「福祉」の土台を固めるフェーズですし、ちゃんと芽が出るかもわからない。土いじりそのものはすごく大変です。でも、だからこそ芽が出たときの喜びは大きい。1個出るかと思ったら、2個ぐらい一気に芽が出ることもありますから。
“やってあげている”という感覚は全くないんですよね。僕自身すごくワクワクしながら、楽しみながら子どもたちと向き合っています。
ーこの10年で、教育観の変化はありましたか?
少子化や経済的な停滞等もあって、社会が教育に大きな疑問を抱き、より教育への注目と関心が高まっているように感じます。大企業で勤めていた人が教育事業を始めたり、民間出身の校長先生が増えてきたり、世の中全体が教育の意義を再認識し始めていると思います。確かにその通りなんですよね。教育が変われば、地域も自治体も国も変わっていく。社会的変化も相まって、社会の根幹としての教育への期待が高まっているのだと感じます。
大槌町もそう。コラボ・スクールに通っていた子どもたちが卒業し、町に出ていき地域づくりに関わるといった循環が生まれるようになり、大人たちの対応や地域の雰囲気も少しずつ変わっていったように感じています。私自身も10年前は、“教育イコール自分の目の前の子どもたちの変化や成長に関わる仕事”という認識しかありませんでしたが、今では社会の根幹であり、社会の大きな駆動力として捉えています。世の中も変わってきていると感じますね。
ー「カタリバだから頑張れた」という部分もあるのでしょうか?
そうですね。ぶっちゃけた言い方をすると、ある程度の待遇が保障されているのは非常に大きかったです。
10年前に入職した頃からは考えられないです(笑)。社会的に意義のある仕事をしているはずなのに、「NPOってボランティア? 生活できるの?」と言われる時代でしたから。
ところが時代が変わって、カタリバが教育の中で発揮する価値の大きさが、社会の期待とマッチしてきました。やりがいだけではなく、生活面での豊かさも確保しながら働ける環境になってきています。
最近は、大手企業や有名企業で働いていた若手たちが続々とカタリバへ入職していますが、個人的にはNPOで働くことがキャリアの選択肢としてもっとメジャーになってほしいですね。よりよい社会を創造するために試行錯誤する過程は、「働く」という行為をより能動的にし、自分たちの仕事に責任と誇りを感じられると思います。胸を張って語れる仕事だと思います。
新たな挑戦へ。
政策づくりの最前線を知って
現場に還元していきたい
ー10月からは、2023年4月に設置される「こども家庭庁」の設立準備室である「内閣官房こども家庭庁設立準備室」に身を移されると聞きました。
話をいただいた当初は、事業責任者として新規事業含めいくつかの案件を担っているなかで転職することへのためらいの方が大きかった、というのが正直なところです。ただ、担当の方から具体的な話を伺うなかで意志が固まっていきました。
こども家庭庁ではこれまでの経験を生かして、子どもたちの居場所づくり指針の領域に携わっていく予定です。
ー転職を決めた理由は何だったのでしょうか?
最初にお伝えしておくと、僕はこども家庭庁での任期が終了したら、また子ども支援の現場に戻りたいと思っています。そんな気持ちがありつつも転職を決断したのには、大きく分けて3つの理由があります。
一つは、政策と現場の両面をつなぐ役割の必要性に対して、これまでの経験を持って貢献したいと思ったからです。変化する子どものニーズに対し、政策サイドと子どもたちに関わる現場が密につながり、ともに考え汗をかくチームとなることが重要です。”居場所”とはあくまで子どもたちが感じるものであって、届ける側の一方通行では成り立たない。だからこそ、政策と現場が一体となって進める必要があると感じています。
二つ目として子どもたちを取り巻く課題を立体的に捉えるためにも、現場と異なる環境に身を置く必要があると考えたから。
生まれながらの環境に困難を抱えているなどの事情で社会の網目から抜け落ちてしまう子どもたちに対して、現場の僕らはできるだけ網目を細かくしながらサービスを届けてきました。一方で、国としての指針や制度を作る実務のことや、なぜ網目から抜け落ちてしまう子どもたちがいるのかということは、僕自身まだわかっていないことが多い。
政策づくりの最前線を知ることで、現場での仕事の取り組み方に新たな観点を持ち帰りたいですね。
最後に、カタリバに10年間在籍し良くも悪くも組織の文化ややり方が染み込んでいるからこそ、このあたりで一度カタリバから離れ、子どもたちの居場所支援のあり方をフラットかつ俯瞰的に捉え直したい。これまで自分が「いいもの」と思っていたものが本当にそうなのか、外から再確認してみたいです。
ー最後に、今後の目標を教えてください。
目の前にいる“この子”だけではなく、まだ出会えていない“あの子”にも生きやすい社会にしていくために、既存制度はフル活用し、存在しない制度ならば新たにつくりだしながら、現場を深め広げていくことに挑戦していきたいです。そのためには、適切な切り口を見つけることが重要だと考えています。
たとえばカタリバでは最近、新しいプロジェクトとして都内の区立中学校と協働した「リビングルームプロジェクト」をスタートしました。これは学校内の空き教室を活用し、学校の雰囲気とはちょっと違うリビングルームをつくることで、在籍する子どもたち一人ひとりが校内に居場所がある状態を実現するプロジェクトです。
例えば、この取り組みを広げていこうと思った時、事例集にまとめて配るだけではなかなか広がっていかないと思うんです。今回のプロジェクトの肝は、我々を含めた地域の人々が学校経営に参画するコミュニティ・スクールという制度の活用にあります。しかしながら校内リビングルームを広げていく方法には、文科省が推進する余裕教室の有効活用という別文脈での可能性など、他にも様々な既存制度を切り口にした方法が考えられます。
どの制度をテコにして、事例を広げていけるのか。課題解決をより前進させるために、目の前の現場づくりだけではなく、現場と政策を行き来した事業づくりのあり方について、こども家庭庁での仕事を通じて学んでいきたいです。
最近子どもが生まれて、改めて思うんです。子ども時代に「自分なんて生まれてこなければよかった」と思わせてしまう社会は、何としてでも避けたい。子どもたち一人一人が「生まれてきてよかった」と思える社会にしていくために何ができるのか、立場は変われどこれからも探究していきたいと思います。
「こども家庭庁での経験を携えて、再び現場づくりに取り組んでいきたい」
取材中、「また現場に戻ってくる」という言葉を彼が何度も口にしていたのが、とても印象的だった。異なるフィールドで研鑽を積んだ彼が子どもたちの待つ現場に戻ってくるその日を心待ちにしながら、新たな挑戦に心からのエールを送りたい。
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田中 嘉人 ライター
ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。
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