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KATARIBA マガジン

「ここがあったから夢が見つかった」という居場所をつくりたい。被災地の子どもたちとの8年間/Spotlight

vol.181Interview

date

category #インタビュー #スタッフ

writer 田中 嘉人

Profile

渡邊 洸 Ko Watanabe 女川向学館・大槌臨学舎責任者 / マイプロジェクト東北事務局責任者

1983年生まれ。岩手県北上市出身。北海道大学公共政策大学院修了。 地域資源を活用したまちづくりについて学んだ後、地方自治体の行政改革、業務改善を支援。以前より地元へ戻ることを考えていたが、東日本大震災からの復興を支援することが先決と考え、2013年2月よりカタリバへ。現在は女川向学館と大槌臨学舎の責任者を務める。また、身の回りの課題や関心をテーマにプロジェクトを立ち上げ、実行することを通して学ぶ、実践型探究学習プログラム「マイプロジェクト」の東北事務局責任者も兼務しつつ、東北の後輩たちの学びを支援する。東北各地に必要とされるような、まちと連携した新しい学びの形をつくるべく奮闘中。

度重なる自然災害やコロナ禍など、昨今は社会全体、さらには子どもたちの置かれる環境に大きな影響を与える出来事も少なくない。

すべての10代が意欲と創造性を育める未来の当たり前を目指し、全国各地で活動を行っているカタリバ。
その現場では、状況の変化に合わせて取り組みの内容を柔軟に進化・変化させつつ、目の前の子どもたちに向き合っている。

シリーズ「Spotlight」では、現場最前線で活動するカタリバスタッフの声を通して、各現場のいま、そして描きたい未来に迫る。

東日本大震災から10年。地震や津波によってあの日を境に日常が一変し、大きな悲しみを経験した子どもたちが数多く存在した。

「『震災があったから夢を諦めた』ということが絶対に起こらないように。彼らが安心して過ごせて、勉強できる場所を届けたい。」
特に被害の大きかった宮城県女川町と岩手県大槌町に震災直後立ち上げたのが、コラボ・スクール。宮城県女川町の「女川向学館」と岩手県大槌町の「大槌臨学舎」では、地域の学校はもとより、行政、全国から集まったボランティア、さらには寄付者と連携をとりながら、子どもたちが学ぶための支援を行っている。

女川向学館と大槌臨学舎の両拠点の責任者として、女川町と大槌町と行き来する生活を送っているのが、渡邊洸(わたなべ・こう)。2013年2月の入職以来、東北の子どもたちを見守り続けてきた渡邊の目線を通じて、被災地の子どもたちとの8年間を振り返る。

ランドセルを机代わりにー。発災直後の学びの実態

ー本題に入る前に、カタリバへ転職したきっかけから教えてください。

自分が生まれ育った地域の子どもたちの教育環境をよくしたかったからです。

ぼくの地元は岩手県北上市なのですが、震災を経験した東北の子どもたちは広い意味で、同じ地域で育つ「後輩」という感覚でした。いずれは地元に戻りたい気持ちはありましたが、まだ東京で働いていた頃に震災が起きて。被災後の様子を聞いたり、実際にボランティアへ行ったりすると、仮設住宅での生活を強いられて部屋が狭くて勉強できなかったり、できてもランドセルのうえで宿題をしていたりと、少なくともぼくが育ってきた頃よりも教育環境が悪かった。「なんとかしてあげたい」という気持ちで飛び込みました。

正直いうと「カタリバ」という名前すら知りませんでしたが、東北の被災地で教育関係の仕事に就くために転職しました。

もともと大学院で公共政策を学んでいたこともあり、まちづくりに興味がありました。教育を通して町のひとたちと関係を深めていくような仕事をやりたいと思って転職を決めたのですが、入職してみると「授業など子どもと直接向き合う方をやってほしい」と。ちょっと驚きましたが、教員免許を持っていたし、子どもは好きだったので、戸惑うことなく仕事に臨めました。

ー当時はいま以上に町に震災の爪痕が残っていたと思います。実際に目の当たりにして、どのように感じましたか?

仮設住宅のなかを見せてもらったことがあったんですが、衝撃的でした。「ここに家族5人なんて考えられないな」と。いきなり家がなくなったかと思ったら、中学生になっても、お兄ちゃんやお姉ちゃんと同部屋ですからね。そして、その生活がいつまで続くのかもわからない。ぼくだったら耐えられるかわかりません。教育の環境としては劣悪だと言わざるを得ないし、「この子たちは大変な人生を歩んでいる」と改めて感じました。

ー当時の子どもたちは、渡邊さんの目にどのように映ったのでしょう?

ぼくが受け持ったのは中学生だったんですが、良くも悪くも、少し大人っぽい子が多かったように思います。もちろん子どもっぽいところもたくさんあるけど、自分が中学生だった頃とは比べ物にならないほど背伸びしているような印象を受けました。

おそらく、震災の衝撃が大きかったんだと思います。決して冷めているわけではなく、現実を直視できているというか。「震災で町がなくなったから、建築士になって丈夫な建物をつくりたい」とか「病院の方にお世話になったから、薬剤師になりたい」とか。中学生とは思えないほど、リアルに夢を描けている子どもの割合がすごく高かったように感じます。

導くのではなく、背中を押すこと

ーそれ以降、支援を続けてこられているわけですが、この8年間、子どもたちとはどのように接してこられたのでしょう?

意識していたのは、子どもたちが目の前の課題からは目を背けないようにすることです。

家も流されて、狭い仮設住宅で暮らしていて、町もボロボロで……「もう、いいや」と投げ出したくなってしまう気持ちもわかるんです。何もやらないことを選択したとしても、親も心身ともに疲弊しているから何も言えない。

でも、「被災地にいたから何もできなかった」なんて言ってほしくないじゃないですか。被災地でも、なんなら被災地だからこそ、「こんな体験ができた」「自分の将来の夢が見つかった」といえるような教育を受けてもらいたい。そのためにも「目の前の課題の解決に向き合うことを諦めないようにしてほしい」と思って、接していました。

ー具体的にはどういうことをされていたのですか?

すごくシンプルですよ。「話をちゃんと聞いて、ちゃんと会話する」、そして「子どもが実現したいと思う未来に対して、自分ができることは120%の力を注ぐ」、それだけです。

ぼくは子どもの成長度合いは、周囲の教育環境などで変わってくると思っています。誰にでも可能性があって、ちゃんと話を聞いてあげて、気持ちを伝えていけば、自分なりに道を見つけていくはずですから。

くだけた言い方をしたら“地元の先輩”“親戚のお兄ちゃん”ぐらいのスタンスですよ。カタリバでいうところの「ナナメの関係」ですね。

ーそのあたりの接し方にはどのように行き着いたのですか?

大学での授業は大きかったかもしれません。教育学部の授業で「教育とは何か」という議題になったとき、教授が「教育とは、支援することだ」と。その言葉がずっと心に残っていて。「こうあるべきという方向に育てるのではなく、個々人の背中を押して伸ばしていくことこそが教育なんだ」と。そのときにすごく納得感があったので、あまり迷うことはなく行き着きました。いまでも考えを押し付けるのではなく、自分で答えを探してもらうように接しています。

ー印象に残っているエピソードはありますか?

よく他の子と喧嘩ばかりしている男子生徒がいたんです。根はいい子なんだけど、すぐに喧嘩しちゃう。取り付く島もないような子どもだったんですが、とにかく話を聞くことに徹しました。何度も何度も機会を重ねるうちに「将来的に土木関係の職に就きたいので、それが目指せる高校へ進学しようと思っている」と言い始めて。「じゃあ、そのためにはどうすればいいだろう?」「英語の点数を2〜30点多く採らなきゃいけないですね」というやり取りをして、勉強するようになりました。でも、しばらくしたらまた喧嘩。「それでいいのか?」「入りたい部活もあるんだろ?」と粘り強く接し続けて。その繰り返しでしたが、志望校に合格できたときは嬉しかったですね。

震災10年。ハードの復興が一区切りした今、
子どもたちに必要なものとは?

ー渡邊さんが赴任して8年。子どもたちの変化はありますか?

女川の話になりますが、まずハード面の話をさせてください。

仮設住宅が減って、新築で家を建てたり、復興公営住宅に入居したりする家族が増えてきました。学校や役場、駅前の観光商業施設も整備されてきたので、住環境はある程度メドがついてきた印象を受けます。

子どもたちに目を向けると……言葉を選ばずにいうと、赴任当時ほど「震災に負けずに頑張ろう」という雰囲気はなくなってきているような気がします。それは、ある意味復興としての区切りがついたことの現れでもあり、当然といえば当然なのかもしれないのですが、勢いを感じられないと言い換えることもでき、少し不安を覚えるというのも正直な気持ちです。
小中学生の時点で明確な夢を持っていなくてもよいと思いますが、将来の目標を聞くと「別に特にない」「〇〇はなんとなくやりたくない」という感じの答えが増えてきている印象がありますね。

ハードの復興フェーズが終わり、子どもたちが「地元をなんとかして立て直さなければ」という気持ちを持たなくてよくなった分、「何をしたい」「何をするべき」ということに向き合う機会が減ったとも言えるのかもしれません。

ー正解もないうえに子どもたちの人格形成にも関わる責任の重い仕事で、渡邊さんが大切にしていることがあるとしたらなんでしょうか?

そうですね。震災のあるなしにかかわらず、子どもたちが自分の将来やキャリアを描けるように支援するという根本は変わらないんですよね。

だから、ぼくが彼らと同世代だった頃に「こういうのがあったらよかったな」と思うことを実践しています。たとえば、将来の選択肢。単に「この偏差値ならこのあたりのレベルの大学かな」という話をするのではなく、いろんなひとに会って、いろんな仕事のおもしろさを知ったうえで自分で将来を選んでいくほうがいいと思うんですよね。間違いなく。

震災直後と子どもたちの雰囲気が変わってきているように感じることもありますが、「子どもたちをどう支援するか」とちゃんと向き合っていくことがぼくの役目です。

そのために重要なのは、子どもたちの可能性を否定しないこと。誰にでも平等に可能性がある。全員がちゃんと成長の機会を得られるように、環境の格差を埋めていくこと。子どもがうまくいかない理由を、本人の責任と結論づけてはいけない。子どもたちの可能性を信じて、成長の機会をなるべくたくさん提供していきたいと思います。

渡邊の言葉から感じたのは、「自分自身がやるべきだと感じるからやっている」という強い信念。カタリバという組織に所属していること以前に、彼自身の心にある想いが彼を突き動かし、課題と向き合い続けさせている。彼の想いに触れた子どもたちは、きっと自分たちの力で道を切り拓いていくことだろう。自分たちの、そして東北の未来のために。


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Writer

田中 嘉人 ライター

ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。

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