「助けが必要なひとたちのために」国際NGOを立ち上げた青年がカタリバを志したわけ/NEWFACE
石井 丈士 Takeshi Ishii カタリバオンライン・キッカケプログラム担当
1986年生まれ。桜美林大学卒業後、親と生活することのできない子どもたちを支援するNGOに就職。3年間のフィリピン駐在を含めて10年間の勤務後に独立。フィリピンで高校生たちの支援を行うNGOを立ち上げる。2年間の事業運営後に帰国し、国内で将来を担う次の世代に関わりたい続けたいという思いでNPOカタリバに入職。困窮世帯にパソコン・wifiを貸与して教育支援を行うキッカケプログラムを担当。
ここ10年で、仕事のあり方・捉え方は、まったく違ったものになってきている。終身雇用は崩壊、転職は当たり前のものとなり、副業やフリーランスも一般化。テクノロジーの発達によって無くなる仕事予想も大きな話題となった。給料や肩書よりもやりがいや意味を重視する若者も増え、都会から地方にUIターンすることも珍しくなくなった。世界が一斉に経験したコロナ禍をへて、今後ますます働き方は多様に変化していくだろう。
そんな中カタリバには、元教員・ビジネスセクターからの転職・元公務員・元デザイナーなど、多様なバックグラウンドを持った人材が就職してきている。その多くは20代・30代。彼らはなぜ、人生の大きな決断で、いまNPOを、いまカタリバを選んだのか?
連載「New Face」では、入社1,2年の新入職員たちがカタリバで働くことを選んだ、その選択の背景を探る。
桜美林大学卒業後、フィリピンの子どもたちを支援するNGOにて10年、さらに同国の高校生たちのキャリア支援をするNGOを自ら立ち上げ2年……と海外に軸足をおいて活動してきた石井丈士。彼が次のステージとして選んだのが、カタリバだった。
現在は、困窮世帯にパソコン・wifiを貸与して教育支援を行なう「キッカケプログラム」を担当する石井。彼は、なぜカタリバを志したのか。石井のターニングポイントに迫る。
フィリピンでの
挫折を乗り越えて
ー大学卒業後の経歴とそれぞれの仕事内容について教えてください。
きっかけは、大学時代に参加したフィリピンでのボランティアです。フィリピンの親と生活することのできない小学生ぐらいの子どもたちのところで一緒に遊んだり、周辺の道路を整備したりと充実の2週間を過ごしました。
そのボランティアから帰国する前日の話です。日本へ帰国する道中、路上で小さい男の子が物乞いをしてきたんです。差し出してきた小さな手のひらを前に、ぼくは何もできなかったことが強烈に心に残って。そのままボランティアを主催するNGOで活動することを決め、大学卒業後はそのまま入職。3年ほどフィリピンに駐在して働いたこともありました。
フィリピンで活動していた2018年当時の石井
ーなぜ自らNGOを立ち上げようとしたのでしょうか?
高校生の子どもたちに向けたキャリア支援が必要だと感じたからです。
それまで働いていたNGOがサポートするのは、だいたい15〜16歳ぐらいまで。さらに、フィリピン全体で見ても子ども向けの支援は15歳を境に徐々に減っていきます。
すると、子どもたちが再び困窮を強いられてしまうんです。自分が10年近く関わってきた子どもたちが再び苦しい生活をせざるを得なくなる姿を目の当たりにするのは辛かったし、下の世代の子どもたちにとっても将来の不安につながる。そこで、「10年間フィリピンの子どもたちのことを考え続けてきた自分だからこそできることがあるんじゃないか」とNGOを立ち上げました。
ー具体的にはどういう活動をしていたんですか?
子どもたちの将来設計を一緒に考えたり、ロールモデルになりそうな大人を呼んで彼ら・彼女らに話してもらったり、あとは大学へ行きたい子どもに奨学金を支給したり、ですね。
ここ数年のフィリピンは、自給自足の生活から現代的な働き方へ移行する転換期。ただ、郊外のさらに貧しい生活を送っているひとたちは、その波に乗ることもできない。いくら食糧などの支援はあっても、自分のキャリアが見えないことでつまずいてしまうひとがたくさんいました。「彼ら・彼女らが前を向くためだったらなんでもやる」という気持ちでした。
ーでは、なぜ帰国することになったんですか?
結論としては、事業がうまくいかなくなったからです。収益面での苦労もありましたが、原因の多くはぼく個人の考え方にあったと思っています。
ーというと?
なんというか、ひとりよがりになりすぎたんですよね。自分がやりたくて始めたがゆえ、頑なになってしまったというか。必要とされていた事業だったとは思います。
ただ、ぼく自身スーパーマンではないのに、足りないことやできないことに直面したとき誰かを素直に頼ったり、仲間を見つけたりすることができなかった。たとえば活動に参加する高校生の集まりが悪くなってきたときに、フィリピン人のパートナーを見つけられていたら状況を打破できていたかもしれない。でも、嫌なことやうまくいかないことに目をつぶって、できることだけをやっていて、活動を広げていけなかったことが最大の要因だと思います。
そうなるとだんだん自己否定するようになってしまって、丸1日何も動けないこともありました。「さすがにこのままじゃマズイ!」と我に返って、いろいろなひとに相談するようになったんです。日本の知り合いに相談したとき「一度帰ってきたら?」と声をかけてもらえて。「あ、自分には”日本に帰る”という選択肢があるんだ」ということに、そこで初めて気づき、帰国することを決意しました。
再出発の場所に
なぜカタリバを選んだのか
ーかなり苦労をされてたんですね。では、なぜカタリバに?
言葉を選ばずにいうと、「大きい規模の組織でリスタートして、経験を積みたい」と思ったからです。
フィリピンで痛感した力不足。特に自分は個人プレイは得意だったけれど、チームプレイへの意識が低かったような気がして。大きい規模の組織で誰かを巻き込んで同じ目標を目指す経験を積む必要があると感じました。大きい規模の組織であれば、自分の経験が何かしら活かせる場所があるはずですから。
ーということは、仕事内容についてはあまり意識していなかったんですか?
そうですね。もともとは日本で暮らす海外にルーツをもつ子どもたちのために何かしたいと思って選考を受けていましたが、二次面接で落ちてしまって。
ところが面接結果の電話連絡で「もしかしたら石井さんにマッチする仕事があるかもしれないので、最終面接に進んでみませんか?」と。最終面接に行ってみると、代表の今村が「こんなことをやってるんだけど、どう?」と。
具体的には、生活困窮世帯にパソコンとWi-Fiを貸し出して、オンライン環境を構築して教育支援をしていく事業です。正直、パソコン周りにそんな詳しいわけではないんですが、実現すればいろいろな可能性が出てくることは感じて。あとは、ぼく自身新しいことをゼロから立ち上げていくことにはすごく興味があったので、「やります」と。
「助けを必要としているひとのために活動したい」という気持ちはずっと変わらず持ち続けている部分でもあったので。
ー仕事内容についてもう少し詳しく教えてください。
パソコンとWi-Fiを貸し出すだけだと使い方がわからない子どももいるので、最初は基礎的なパソコンの使い方のサポートから始めました。本格的なサポートはこれからスタートするんですが、小学生はグループで、中高生はマンツーマンで伴走者となるメンターがついて、学習や生活目標の設定をし、目標達成のための伴走をしていきます。
もちろん難しさはあります。たとえばフィリピンと違って、日本は学習コンテンツが豊富にある。「そのなかでどれを選んでどう活用するか」は手探りな部分もあるので、これまでのカタリバのノウハウを活用しながら決めていきたいと思います。
あと、特に難しいと感じるのは、こういう支援が本当に必要なひとたちに届かないことですね。フィリピンでは社会的支援を活用することはかなり当たり前になっているのですが、日本では「恥ずかしい」「隠したい」と思われている部分もある。そういう意味で伝え方、届け方に苦労することはありますね。
ただ、やり甲斐や可能性もすごく感じています。たとえば東京と地方を比較したとき、東京は人口が多いからいろいろな支援を受けられる可能性があるのに対し、地方ではなかなか受けられない。地方で生活が苦しかったり、居場所を失ったりしてしまうと、自分の将来が見えづらくなってしまうわけです。
オンラインが拡充すれば、物理的な距離もクリアになるし、気軽さも増すような気がしていて。いままで国内の行政やNPOができていなかったところにリーチしていける可能性は高いと思います。これからの社会のインフラになりそうな部分に関われていることは、ものすごくワクワクしています。
「NPOにしかできないこと」
を形にしていきたい
ーでは、今後カタリバのなかでどういう存在感を示していきたいと考えているのかを教えてください。
そうですね……ひと言でいうと「困っているひとがいたときにすぐに動き出して、何か形にしていける力をつけていきたい」ですね。
たとえば、先日の熊本での豪雨災害のときも、カタリバはすぐに飛び込んで、キャッシュフローを含めて事業を形にしていました。自分はそういう能力が足りなかった過去があるので、まずはきちんと実力を身に付けたいと思っています。いま任せてもらっている事業も手探りな状態ですが、オーナーシップを持って進めていきたいですね。
もう少し広い視野の話をすると、企業には出せないような部分をもっと形にしていきたい。これほどの予算規模のNPOって、NPO業界では大きいかもしれないけれど、一般企業と比べるとまだ小さい方だと思います。メディアで取り上げてもらうこともあるけど、まだまだ「ソーシャルグッドな活動をしている団体」としてのみ取り上げられる側面が強い。でも、本当は社会的意義もあるし、経済とも噛み合っていて、世の中的に当たり前の存在になるべきだと思います。自分自身できることはまだまだ少ないけれど、しっかりと経済的な側面も意識して、かつ世の中が求めていることをアウトプットしていきたいですね。
ー「企業には出せない部分」とは、たとえばどういうところなんでしょうか。
「支援し続けること」ではないでしょうか。企業や個人や一時的に経済支援はできても、継続的にひとの成長に寄り添って、将来を見据えて支援していくことは難しいと思います。少なくとも本業があるなかでの支援なので。でも、ぼくらはできる。そのためのノウハウもある。すぐに結果は出ないかもしれないけれど、粘り強く向き合っていきたいと思います。
ー最後に聞かせてください。石井さんにとって「仕事」とはなんですか?
最初に勤めていたNGOの代表には「“何を仕事にするか”ではなく、“どう生きていくか”を考えなさい」と言われていました。もう少しカジュアルな言い方をすると、「好きなことをやっていたら仕事になった」って感じですかね。
大学卒業のタイミングでやりたいことがないひとなんてザラにいると思うんですよ。しかも、就職活動は、決められた選択肢のなかから選ぶという色合いが強い。でも、それで本当に幸せになれるかはわかりませんよね。だから、「どう生きていたら幸せなのか」を軸に考えていく。人生と地続きにあるもの。それが、ぼくにとっての「仕事」ですね。
「ぼく、今年で34歳なんですけど……」と、照れくさそうに石井は入職後の印象を語り始めた。「カタリバってぼくより年下のひとが多いんですよ。でも、スピード感はあるし、能力も高い。何より仕事に責任を持って取り組んでいる。だからすごく刺激をもらっているんですよね。もう一度自分も頑張らなきゃって」。
自らの入職を“リスタート”と表現する石井。挫折を経験した男が、カタリバで大きく羽ばたこうとしている。
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田中 嘉人 ライター
ライター/作家 1983年生まれ。静岡県出身。静岡文化芸術大学大学院修了後、2008年にエン・ジャパンへ入社。求人広告のコピーライター、Webメディア編集などを経て、2017年5月1日独立。キャリアハック、ジモコロ、SPOT、TVブロス、ケトルなどを担当しながら、ラジオドラマ脚本も執筆。
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